私は人を退屈させる、つまらない存在…?
自分はつまらない存在である、と思っている人は、実はとても多いようですね。
何でもない存在、何者でもない自分。それを思い知らされることへの不安、恐怖。
それは、いくら本を出していたり、人前でしゃべっていたり、お金がいっぱいあったり、あるいはテレビに出たりしていても、関係なく出てくる悩み事だったりもして。
自分は人を退屈させてしまう。自分の言葉は聞くに値しない。だから人の集まるところには行きたくない。行く資格がない。
「いい人」は褒め言葉なんかじゃない!(涙)
ずいぶんと昔のことですが、ある方が私のことを「いい人」と表現したことを耳にして、なぜか私の心はザワッとしました。明らかに褒め言葉の文脈だったのにもかかわらず。
私は私なりに修行を積んできたので、このような瞬間的な心の反応は、単なる「信号」であって、その裏に何か本当の気持ちがあることをわかっています。
だから感情に溺れず、心乱されず、ただ観察してみることにしています。ザワっという感情の波がいったいどこから発生し、広がってくるのかをジッと追いかけてみるのです。
すると出て来るのが、「自分はおもしろくない人」「自分の話はつまらない」という劣等感や不安。
さらに突き進めていくと、「取るに足らない人」「好かれない人」「忘れられる人」「相手にされない人」「嫌われる人」というように、どんどん深みにはまっていきます。
結局、人は人に嫌われたくなくて、それが本能的に怖くて。だから、そうなりかねない、と自分が解釈していることにザワザワとしたりするんですよね。
天然って、言わないで!
クライアントに、「天然」という表現が辛くてダメだという人が複数います。あっけらかんとした褒め言葉であったとしても、そのようにレッテルを貼られることに嫌悪感や恐怖心がつきまとうのだと言います。
「バカにされている」という意味合いにとらえているんだな、と、話を進めていくとわかるのですが、それはその場面のことというより、深い記憶に結びついた論理であり、感情なんですよね。
自分はあまりにも普通過ぎてつまらない人間だとか、人の目ばかり気にして本音が出せないと怯えている人にとって、「天然」は実は憧れです。
人を恐れず、自分のキャラがポンっと前面に出て、すぐに皆の人気者になっていく。飾らない。気取らない。素のまま。自然体。作らない。作為がない。
だから、愛される。愛すべき存在。
なのに「天然」と言われた方の耳には、ときに「バカ」「知能指数低い」「大ボケ」「無能」「浅はか」「ポンコツ」などと聴こえてしまっていて、勝手に劣等感やら絶望感やらが沸き起こり、怒りや拒絶反応へと転化していったりするようです。
もちろん、すべて人それぞれで、個人差があるので、単なる一例をお話しているだけなのですが、人の心の不思議さを知るごとに、人間と人間が分かり合えるというのは、かなり奇跡的なことなのだなと思いを新たにします。
メルマガに書いたら、両極の反応が!
このことをメルマガに書いたら、面白いことに、タイプの違う反応がふたつほど返ってきました。
ひとつは、こちら。
「私は『しっかりしている』と言われると、もうザワザワしまくって、ダメだったんです!」という方。
だから「天然」「天真爛漫」とか言われるような子に憧れてました
。そう言われて嫌な人もいるんだってびっくりです!」
もうおひと方は、「天然」と言われることが嫌いで、人にも言わないで!と直談判したこともあるそう。
「説得力に欠ける自分」「天然ボケが褒め言葉とは思えない」というお言葉もありましたが、ああ、なるほどね、と思います。
というのは、天然、という言葉に、どんな意味を託すかは、その人次第。会話の流れ次第なのです。
英語に天然はないですよね?と聞かれたので、私はこう答えました。
天然を褒め言葉として使っている人は、「可愛い」「ナチュラル」「自分らしい自己表現が自然にデキる人」という意味合いで言っていたりします。だから、英語の訳も、その時々で、Cuteだったり、Natural、だったり、それこそAuthentic、だったりするわけです。 いずれも、ものすごい褒め言葉ですよね。
いずれにしても、人の奥底には「嫌われたくない」「孤独にされたくない」という潜在的な恐怖心が隠れています。
そのことへの怯え、不安を手放すことができると、人はかなり自由に羽ばたいていけるようになっていきます。
恐怖心には実体がなく、単なる幻想。妄想。記憶が作り出すウソの感情に過ぎません。
自分らしいライフスタイルを確立していくにあたって乗り越えなくてはいけないことのひとつですね。