人とわかりあえる、は幻想か?

最近、アメリカのネットフリックスでも日本の「テラスハウス」が観れることを知り、遅ればせながらはまっています。

90年代初頭に一世風靡したMTVの「リアルワールド」の日本版みたいな、同居型のリアリティTV。

アメリカではその後、リアリティTV旋風がおき、ドラマもコメディも蹴散らして、テレビ界を席巻中。

リアリティTVは、スタイルも、主旨も、セッティングも、とにかく何でもありの超バラエティ感+超エンターテインメント性が魅力。

まだまだ全盛で、次々と興味深いテーマが登場しています。

その「現実感」が最高に面白くて、私も実は大好きで、アレコレ見ています。

生きた英語の勉強になるし、何よりも「人間観察」に、これ以上の教材はありません。

というのが、公式の言い訳(笑)。

日本人の言葉の少なさ、ぎこちなさ

「テラスハウス」の前シリーズから見たのですが、文化、社会が違うと、こうまで人と人との関わり方が違うか、と、日本の若者のぎこちない距離感のとり方がやけに新鮮に感じます。

日本人って、本当に「言葉数」が少ない。

これじゃあ、誤解されてもしょうがない、というほど、「あうん」の呼吸に頼りすぎてて、言葉を尽くす、ということをしない。

だから、当たり前のように誤解される。

それでもなお、相手を推測し、相手に推測されるがままにし、溝を深めていったりもする…

アメリカ人って、本当にそこはわかりやすいほどストレートだし、息継ぐ間もないほど、言葉がドバーッと溢れ出てくるし(笑)。

そういうコミュニケーションの仕方に慣れてしまうと、日本人のような、腫れ物を触るような、距離の図り方、遠慮の仕方が、とても不自然に思えてしまいますね。

でもまあ、言葉の多さ、少なさ、直接的、間接的、ということはあるにしても、人と人とのコミュニケーションが思い切りズレていくところは、日米関係なく、やっぱり同じかもしれません。

伝えたいことが、伝わらない。

推測、邪推、憶測ばかりで、「直接聞く」ということをせず、誤解が誤解を生んでいく。

同じ事実や、同じ会話でも、人はここまで「違って」とらえてしまうのか…

同じく見えているはずの世界がここまで「かけ離れた」ものになってしまうものなのか…

シナリオのない、生の人間模様の中で繰り広げられる不条理を目の当たりにして、愕然とします。

だから、リアリティTVは楽しい(笑)。

現実なんて、存在しないんだよ

ハワイで学んだ現代式ホ・オポノポノに「There is no out there」という表現があります。

現実世界って、人の意識を通してそれぞれが勝手に見ているものだから、どこにも存在したりしないんだ、という意味合いです。

同じ意味を持つ教えが、NLPにもあります。

「The map is not a territory」(地図は領土ではない)

あなたの頭の中にある地図は、現実社会の土地、そのものじゃないということです。
人はみな、意識のフィルターを通じて人の言葉を聞き、現実を「自分なりに」解釈します。

そして、その解釈が、「人と同じ」だと、勝手に勘違いしています。

でも、そうじゃないんですね。

そうじゃないから、人間関係ってたくさんのいざこざがあり、落胆があり、失望があり。

怒りがあり、防御があり、攻撃がある。

「だって、この場面ではこうするの当たり前でしょ?」

「こう言われたら、こう反応するのって当たり前じゃない!」

「こんな風な態度取られたら、誰だって、こうなるに決まってる」

こういう決めつけをして、勝手に被害者になっていませんか?

私はしょっちゅうでした。

勝手に被害者になるだけなら、まだいいのですが、そのことで人を責めて、「加害者」になっている場合もあるから、要注意ですね。

まずは、「現実って、ひとつじゃない」「人それぞれに、見えている世界は違うかもしれない」ということを徹底的に叩き込んで、不用意な推測や、決めつけによるジャッジメントをやめる。

それだけでも、人間関係はとてもスムーズに回っていくはずです。

人と人とは、ちゃんとわかりあえると信じています。

が、それにはそれなりの努力が必要。

そして、その努力は、一生終わることがなく、言葉を尽くし、心を尽くし。

つまり「誠意」というものが試されていくのかな、とも思います。

こんな過去記事もぜひ参考に。

参考 思い込みは、人間関係を壊すだけでなく自分の可能性もがんじがらめにしてしまう