病とは闘うべきものなのか。死とは闘いに負けることなのか

plumeria

これは僕のパートナーの従姉妹の話で、アメリカ東海岸でのことです。

60歳前後の従姉妹は、ある時、かなりステージの進んだ乳がんと分かって、治療を受けていたのですが、途中で抗がん剤の辛さに耐えかねて中止。後は成り行きに任せる、ということを決断しました。

しかし、それに対する親戚の反応がひどかったと彼は憤りを見せていました。結局、彼女は亡くなったのですが、お葬式を機に集まった場で、治療を最後まで続けなかったことを「病気に負けた」「生きることを諦めた」と非難めいたことを言う人たちがいたらしいのです。説得に従って継続しなかった。聞こうとしなかった。聞いていたら今頃まだ生きていただろうに、と。

従姉妹はとても強く、明るくて日頃、不平不満も言わない人。彼女がもうここで治療は止めて、あとは人間らしく生を全うしたいと決意した。その選択を弱さから来るものと決め込み、「病と闘わなかった敗者」としてレッテルを貼る人が身近にいたことに彼はいたく憤慨し、故人への冒涜ではないかと、やるせなく感じていたのでした。

近くで見守っていた人たちの気持ちも分かります。治療を止めた、ということは、自分たちといることが、彼女の中で生きるモチベーションにはならなかった。裏切られたような気持ちで、いたたまれなかったのかもしれません。もっともっと生に執着して(自分たちと過ごす時間に執着して)、痛みや苦しさと闘ってくれていれば、今頃まだ、生きて楽しい時間を一緒に過ごせていたのかもしれないのにと悔しく思うのも無理はありません。

でもそれでも、どう人生を終えるかは個人が選択して良いこと。効くかどうかも分からない苦しい治療のために「生きている時間」を犠牲にする方が無意味だと考える人もいても良いはず。何もかもを勝ち負けで決め込むのは何も知らない人の身勝手です。病院で、チューブをいっぱい体中に止められて人生を終えることだけが、闘ったことの証だとは思いたくありません。人としての「尊厳」を守りながら、自然という運命に任せて生きるのも生き方だと思います。

僕の母は、もう30年以上、高血圧で薬を飲み続けて生きてきました。いつもいつも、お医者さんの言う通りに生きてきたけど、糖尿になり、乳がんになり。そしてまた言われるままに大きな手術をし、抗がん剤を投与し、食事も減らしてきました。おかげさまでがんは転移もしておらず、そういう意味では「闘いに勝った」状態に今はあるのかもしれません。

しかしそれで幸せなのかと問われると、母などは残念ながら否定します。生きていても楽しいことは何もなくなっちゃったわと。

リンパ腺まで取ったので、足もひどくむくんで歩けなくなり、いつも痺れがある状態が日常になった。気持ちはそれなりに元気なのに、自由にどこも出かけることができない。あれほど好きだった近所の花の美術館への散歩ももう何年もしていない。外の空気がどんなに清々しくても、もう直接身体で感じることはできない。外にでるのは唯一病院に行く時だけ。一生懸命、2階の家から階段降りてタクシーに乗るのが精一杯。運動ができないから、血圧や糖尿気味なのを治すために食事をまだ減らしなさいとアドバイスを受けている様子…。

これもまた彼女の選択になるわけですが、もし万が一、次に転移が見つかったりした時には、もう辛い治療なんかしないで、車いすでハワイに連れて行って、大好きだったフラをたくさん見て、きれいな海に足を浸して、プルメリアの匂いを嗅いで、ビーチパークでBBQでもやって、好きなものを好きなだけ食べようよって言ってあげたいですね。バリアフリーな島で、思い切り太陽を浴びさせてあげたい。

薬もさ、もういいからさ。肝臓休めて、身体楽にして。美味しいもの、お腹いっぱい食べて生きちゃおうよって言えるかな。言えたらいいな。