時間はかければいいというものではない。1万時間の法則のウソ

10年前、ある経営者の会の役員メンバーとして会議していたとき、

あんまりにも効率が悪い、というか、決めるべき人が、いつまでも決めなくて、

気づけばだらだらと3時間以上経っていたということが、繰り返しありました。

こんな会議ばっかだと、もう時間が惜しくて参は無理!

貢献はしたいのだけれど、物理的に、あるいは気持ち的に、協力したくなくなってしまう。

そんな意見が出て喧々諤々したときに、責任者のひとりが、こう言ったのです。

「かけた時間は、決して無駄にはなりません。

私は、その意味は十分にあったと思います」

それを聞いて、あ、こりゃ早く逃げ出さなきゃな、と諦めと共に覚悟しました。

LAの会社で経営に携わったときのこと。

渋滞がひどい街なので、営業など外勤の仕事は本当にたいへんで。

ちょっと遠出をしようものなら、一日に1〜2件しか、お客様に会えないなんてこともザラ。

でも、そういうたいへんな思いをして出かけたときほど、

いやあ、今日は疲れた〜、良い仕事をしたな〜、なんて

つい「やった気になってしまう」という逆説も然り、なのです。

本当は、全然、仕事になってない。

でも、身体も気持ちもたいへんだった。

だから、なんか、ものすごい成果を出したと勘違いしてしまうんですよね。

世には1万時間の法則とやらがあって、とにかく継続、継続で、

1万時間、頑張ったら、一人前になってるよ、みたいなお話し。

それは確かに真理を説いているのですが、

「時間をかけることが正しい」という解釈ではないのです。

回り道が悪いということではない。

時間がかかるところにいるお客様はケアしなくていい、ということでもない。

問題は、「やった気になっちゃってる」こと。

アメリカ人だけで成り立つハワイのとあるNPO団体の幹部会になぜか参画して

2年近く、役員のひとりをしていたことがありました。

そこには、大手エアラインのハワイ支社長やら、ホノルル警察署長、

ワイキキ観光協会長をはじめ、とにかく重鎮ばかりが参加(場違い感、甚だしい…)。

1ヶ月前から、次の会議の日付と時間が決まっていて、

その会議は、何があっても60分、と決まっていて、

1分たりとも延長しないんです。

皆の負荷にならないように、団体の委員長が完璧な準備をしていて、

60分の中で、報告すべきこと、決めなくてはいけないことを整理。

再優先事項はこれだから、この話題は後回しにして、まずはこれ、とテキパキと仕切ります。

は〜、会議ってのは、こうやるもんだよね〜って、惚れ惚れしてしまうほどのファシリテーション力。

彼女を全面的に信頼して、任せて、ときに異論がある場合も、

手短にポイントだけを伝える能力を皆が持っていて。

遅刻する人もなく、スマホなど覗く人もなく。

アメリカで成功する人たちの見本市みたいだなあって、

言動のひとつひとつを細かく観察しては、自分もそうなろうとしていたのでした。

昔から、残業する人が苦手で、残業させる場の空気がもっと嫌いで。

人一倍、自分は、自分の時間という領域を聖域として持っていて、

それを侵されることを嫌悪する性格らしいのですが、

だよね、だよね、だよね、だよね、

自分の時間間隔がおかしいわけじゃないよねって、感動。

ハワイでの、その会議の経験が教えてくれたことは、偉大でした。

人生100年時代とはいえ、長寿が当たり前になったとはいえ、

無駄に過ごしていい時間なんて、1秒たりともありません。

無駄、っていうか、無為、っていうか。

時間搾取的なことを平気でする人、されてる人を見ると、

つい、ユラリと感情が乱される自分、なんなんでしょうね(笑)。

時間は、作るもの。

そう心得ておくと、自分に時間の支配権が戻ってきます。

その極意は、ここにまとめています。

まずは、やらないことを決め、自他に厳しく、貫くことですね。

時間がザクザク生まれてくる
人生を変える「5つの引き算」