人種差別の根深さにどんよりするというよりも、闘う姿勢の確かさに希望を感じるNBAの一件

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日本でも報道されましたが、今朝ふとつけたカーラジオでも、盛んにこのことが会話されていました。プールのロッカールームでも、「まったく信じられないよ」と皆が口々に話していた。いったい今は2000何年なんだよ、と。

NMAのクリッパーズのオーナーが黒人差別発言をして大いなる問題に発展しています。選手たちはユニフォームを脱いで静かなる抗議をし、スポンサーたちは次々に降り、マジックジョンソンは声明を発表して買収にも名乗りを上げ、リーグもオーナーに売却させようと動き始めています。

最近のアメリカ社会は、すごくこういうところの動きがシャープだなあと感心します。根底にあるのは、絶対に許すまい、元に戻るまいとする強いコミットメントの姿勢。

性別や性的指向に関することについては、まだまだ賛否両論なところも多いわけですが、人種に関しての差別はごく一部のヘイトオーガナイゼーション以外のところでは、一分のスキもないほどブレることを許さない。一貫して揺るぎない姿勢が感じられます。

こうやって時に不意をついて現れると、いまだにこんなことを「思っている」人がいるのかと驚きますが、映画「ヘルプ」などを見て分かるように、アメリカにおいて黒人差別が公に禁じられ始めてから、まだまだ実は日が浅いわけです。あの映画の舞台は1960年代。僕が生まれた頃の話です。1800年代の話ではないのです。
育った環境、年代によっては、強い抵抗感と共に残ってしまっている感覚があるのも事実のようです。もちろん50年も経って、理性や智慧、人間への愛情、感謝の念などによって、過去に一度染められたかもしれない意識が未だに上書きされていないのは由々しき問題。単に言葉の言い間違いとかではないわけなので弁明のしようもありません。

今回は、僕の場合、そのことにどんよりと暗い気持ちになることは一切なく、ブレのない世間の反応やシャープな報道、対応の姿勢に気持ちが明るくなる方が勝っていました。そんなアメリカ社会に「いいね!」を上げたいな。