このところの相談で多いのは、パートナーシップのこと。
私も、まさかの24年間、同じ人と暮らし続ける、ということを成し遂げてしまったわけですが、「ひとり」が大好きでしょうがない自分としては、とんでもなく不思議な出来事。
成し遂げる、という言い方が大げさではないくらい、それまでの関係が短すぎました(笑)。
私は飽きっぽいし、自分勝手だし、その勝手さは好奇心の現れでもあって、それを抑えられると苦しくなるし。
何度もこの辺でやめたい!と思いましたが(苦笑)、でもアメリカに来て良かったのは、
「関係とは共に育んでいくものだ」
という考え方を教えていただけたことです。
はじめから完璧な関係などない、というか、そもそも「関係」という言葉の定義に反します。
はじめに見えているのは、関係じゃなくて、たかが「相性」程度のもの。
で、相性が良かったら一緒に暮らせるのかというと、そんな甘い話ですらないですよね(笑)。
大人世代の皆さんは、よーくご存知だと思います。
逆に、相性なんて最低~というカップルが、長い間、一緒に暮らし、幸せな内に生涯を閉じるケースも多々ある。
育った環境の違う者同士がめぐりあい、惹かれ合い、一緒に暮らし始めるとき、最初は恋愛感情だったり、性愛だったりが強いものの、しばらくすると、それは薄れて、人と人が共同生活を円滑に営む「パートナーシップ」に質を変えていきます。
寮とかで、ルームメイトと一緒に暮らすのと、さほど変わらないのに、そもそもが親密な関係として始まっただけに、ささいな違いが目についたり、遠慮なく相手の傷に触ったり、感情で接してしまったりしがちです。
相談の内容を紐解いてみると、どんなケースにも共通するのが、相手に「期待し過ぎ」ということ。
こういう場合は、こうするべき。
きっと私を見てくれているはず。
まさか、そんなことするはずない。
いろんな自分だけの当たり前がそこにはあって、それに照らし合わせて、少しでもズレがあると、
「信じられない!」「ありえない!」「もうやっていけない!」
と、感情が沸き返り、時にはそこでリセットボタンを押してしまいがちです。
だいたいいつもパターンが同じかな、というときは、原因は「自分」です。
共通するファクターは、唯一、それだけだものね(笑)。
だから、自分が変われば、相手も変わる。関係もきっと変わります。
それは、「折れる」とか「我慢する」とか、一方的に負けを認めて服従するような感覚ではなく、もう少し上位の精神状態で、言うならば、
「受け入れる」
ということになるのかなあ、と思うわけですね。
それは一見、失望ゆえの深い諦めに似ているけれど、実はもっと穏やな希望に満ちたものです。
アメリカのTVや映画を見ていると、カップルセラピーの場面がよく出てきます。
そこで行われる対話をじっくり観察していると、結局のところ目指しているのは、深いレベルでの「受容」だとわかります。
互いをリスペクトし、自分自身もリスペクトし、自分を受け入れ、相手を受け入れ。
価値観なんて、違って当たり前。
その「違い」をこそ、尊重できる関係。
違うからこそ、ダイナミックでユニークで、豊かな暮らしが実現できるのだと、感謝すらできる関係。
それが理解できたときに初めて、関係性は次のステージに向かって成長していける。
そう、関係だって成長する生き物みたいなものなんだと思います。
まるで子どもを育てるみたいに、その壊れやすい存在を慈しみ、試練を乗り越えながら守っていく覚悟が「双方に」あれば、その関係は、きっと長く続いていくのでしょう。
あるいは、互いをリスペクトする前提で、あえて離れて別な人生を生きるのも、成熟した大人の取るべき選択なのだと思います。
アメリカ人は、口頭でとにかく表現してくれますから、わかりやすくてありがたい。
だから自分も精一杯、言葉で表現をすることを、怠らないように気をつけています。
内向的だからこそ、内に溜めやすい。
自分世界で起こっていることと、現実世界を混同しやすい。
だから、外に出して、相手の反応を見て、軌道修正していかないと、と肝に銘じています。
そこにはちょっとばかりの、覚悟もあります。
何しろ、一緒に家買っちゃったし(笑)、つまんないことでケンカして気まずくなるより、話し合いで解決して、気持ちよく暮らした方が、自分にとって得。
なんか、二人して、やっと「ここまでたどり着いた」という印象なんですよね。
結局、これが基本にないと、ダメなんだろうなぁ…
長い道のりだったなあと遠い目になりながら。
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言いたいことが言える自分になるには?