ほしい未来は自分たちの手で作る。静かなる一般市民の闘い方

dicaprioprius

昨日はアカデミー賞の授賞式。家から、車で15分くらいのところで行われているなんて、本当に信じられません。いつかきっと自分もあの場所にいるんだろうな、と強烈に自分勝手な妄想しながら、楽しく見ておりました(笑)。

参加している皆が盛り上げようとリスペクトを払い続けるアカデミー賞。格式、伝統を守り、だからこそおかしいと思えばボイコットもあり得るという。最初から最後まで、人種の話を包み隠さずに話しまくって、オープンな態度で「表に出す」姿勢もお見事でした。

さて、主演男優賞を取ったレオナルド・ディカプリオ氏が、環境に関するコメントをして話題になっていましたね。

ちょうど折しも、大統領選挙運動のまっただ中。明日は、スーパー・チューズデーという予備選が行われる日。

自分が「理想とする社会」を作るための指導者を決めることに、誰もが積極的に意見を持ち、参加し、当然の権利の行使をしようとしています。

アメリカにいると、そうやって、「能動的に」社会に関わろうとする人々の姿勢が当たり前に透けて見えて、面白いです。

誰もがちゃんと意見を持っていて、マイクを向ければとうとうと恥ずかしがらずに自分の論理をまくしたてます。

それが正しいとか、間違っているとか、そういう感覚、ありません。だから、発言にも迷いがありません。

「自分の意見」なのだから、別に正解も不正解もないわけですね。あるか、ないか、表現できるか、できないか、それだけのこと。

世間の基準じゃなく、自分の基準で言葉を組み立てられるかどうかが、知性の証明でもあるわけです。

そして違う意見を持っている人がいても、それはそれでいいじゃない、しょうがないじゃない、人間なんだし、いろんな見方もあって当然と、リスペクトを払います。大げんかはしたとしても、後はまたケロッと仲直りしたりするのも、不思議なところ。

食に関してもそうだよなあ、と思います。

ここまで自然食品やオーガニックの食品が一般的になったのも、そうしないと「買わない」消費者が増えたから。

つまりは、消費者の草の根的な動きが、束になって、力を持って行ったわけです。

誰がなんと言おうと、私はそれは食べない。

高くても、こちらを買うのだ、という姿勢を貫くのは、それ自体が「闘い」です。

安い選択がいっぱいあっても、自分はそれは選ばない。それが意思表示であり、高くてもいいから買うことへの覚悟を持ち続けて、実践すること。

それそのものが、闘い。

デモをしたり、プラカードを持って立てこもったり、ということが、すなわち闘いなわけではありません。

闘いは、日々の生活の中にこそある。

ディカプリオくんは、お金あるけど、ずっとプリウス乗って、主張しています。(写真トップ)

本当の闘いって、こういう確固たる態度から生まれる静かな行動のことを言うんだろうな、と思うわけですね。

自分は影響力などない、と嘆く前に、日々の、なんでもない選択から、きちんと見直していってはどうでしょうか。

その選択は、あなたの「主義主張」と相容れたものですか?

そんな小さなことが、実は「社会貢献」の芽なんですよね。