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【ハワイ秘話】学生インターンから副社長へ昇格した理由

アメリカの社会は、「言ったもん勝ち」だと良く言います。

そして、「交渉の社会」とも言います。

それって本当だよなあ、と実感したのが、大学院を卒業する間近に就職先で迷った時。

1996年の春から1年半以上にわたって、僕はとあるマーケティング会社で働き始めていました。外国人の留学生が合法的に働ける唯一のチャンスは、インターンという形。成績がある程度、優秀であることが条件で、週に20時間まで、という制限つきで働くことが許されます。

経験を積める機会を提供するから報酬はなし、ということが多いのですが、僕も生活していかないとならなくて、だから働きたかったわけです。報酬がある会社をと探して学校のキャリアセンターに紹介してもらった仕事先でした。

仕事としてはベストなマッチング。しばらくは相思相愛な関係だったのですが、どうもトップ(仮にB社長と呼びましょう)との考え方のズレが気になって仕方ありませんでした。なんかこう…「小さい」のです(苦笑)。すべてにおいて。

人のケアがまったくできず、できないから力でねじふせようとする典型的なアメリカンな態度で迫ってきて、それでは日本人が半数以上を占める会社でうまくいくはずもありません。

仕事は自分も貢献して伸ばしてきた自負があったし、実際、入社した当時から3倍にふくれあがっていたので、もっともっと追求してみたい欲求がありました。が、B社長とずっとやっていけるんだろうかという部分で、自信がなかったのです。

仕事が増え、クライアントが増え、社員数も3倍に増えていくに従って、彼の管理能力不足も顕著になっていきました。一度、ビザを取ってもらってしまうと、そこでずっと働かざるをえない状況になります。選択を変えるなら今しかない。そんな思いで新聞の求人広告を見始めていました。

卒業1カ月前になって思い切って応募したのが、とある大手企業の「広告マネージャー」の仕事。条件として出ていることはすべてカバーできると思ったし、上司となる部長さんのことも知っていました。彼女(C部長と呼びましょう)も僕を知っていて、応募書類を見て「あら、困ったわ」と思ったそうです。

C部長はB社長とも懇意の仲で、互いにリスペクトし合う者同士でもあったのです。僕もそれを知っての応募でしたが、C部長としては、僕を採用したいのだけれど、そのためにはB社長に筋を通して話し合いをしないとならないから覚悟が必要だったようなのです。僕の方が応募してきたとはいえ、結果的には引き抜きとして見られかねないからということでした。日系人の彼女、そこがものすごく律儀で、さすがハワイを代表するビジネスウーマンとして表彰されたりする人だなあと、ますます一緒に働きたくなったりしました。

そして、そこから予想だにしなかった、僕を巡るドラフト会議のようなものが始まりました。

C部長がB社長に連絡。「上野が応募してきて、こちらも採用したい」と宣言。面談を進めていくにあたり、ひとこと断っておきたかったと話したそうです。

するとB社長が僕に連絡してきて、「うちだってマネージャーとしてこういう年収を用意してるんだよ」と言ってきました。しかしまあ、それは想定内の額と待遇だったので、たいして驚きもせず、ふーん、という感じだけでした。そもそも待遇なんて問題ではなかったのです。

「こういう風に連絡があったけど、このまま進めたい」という旨をC部長に伝えると、頼んでもないのに「うちはこれだけ出すわよ」と1割増しくらいの年収をオファーされました。あれあれ…?

すっかりそっちに行く気になっている自分は、「年収も上らしいし、あちらで進めたいから」とB社長に告げると、「おいおい、交渉はこれからじゃないか、こっちはここまで行けるぞ」と、肩書きがマネージャーからディレクターになり、年収も若干、C部長よりも多い額をオファーしてきました。

この辺で、僕のドキドキが始まりました。おいおい、これって何なんだ? 自分を巡って、取り合いみたいな交渉が始まってるのか…?

事実その通りで、C部長は人事部に交渉して、さらに上の年収をカウンター・オファーしてきたのです。あららら…(汗)。

僕はC部長の会社の人事部とも会い、しっかりした待遇を確かめていたし、ビザのことも保証してもらったし、吹けば飛ぶような小さな会社ではなく、安定感たっぷりの大きな組織で守られて働くことの魅力に惹かれ始めていました。(別に実際にはそういうことはなく、数年後、テロ事件をきっかけに大きく傾いたハワイの観光業界の影響を受けて、C部長ですらリストラの犠牲になったりもしたのですけれど…。)

B社長は、ここで時間を置いて、じっくりと考えていました。ブレーンともいろいろ話したようです。そして、僕の人生を変えたかもしれない、とっておきのオファーをしてきました。

「うちは君を新しいVice Presidentとして迎えたい」と。

お金ではそれほど動かなかった心が、その肩書きを聞いた瞬間、グラっと動いちゃったのです。不思議なことに。

もちろん、それなりのお金もついてきました。もともとのオファーから比べたら、150万円以上大きい額になっていましたし、利益の数%を配分するというプランもついてきました。

でも、大きかったのは、Vice Presidentという肩書きの響きでした。あれ、グラっと来ちゃったよ…。なんでだろう。

こんな表面的なところにスイートスポットがあったなんて、と動揺する自分。

小さな会社で、オーナー社長の彼の下は、マネージャーが3名いる程度。あとはもうフラットでした。僕よりも長く働いてきた人も多いマネージャーたちを飛び越えて、いきなりのNo.2になるのかあ、というのは、「評価の示し方」としては最高レベルでした。

学校に行きながらではあったけれど、時には無給でものすごい時間とエネルギーを費やして働いてきました。会社の中心事業である広報プログラムの基幹データベースシステムを考案してスペシャリストと作業して完成させたり、時間では測りきれない働きがそこにはあった、と思います。それほど情熱を傾けたし、やっている仕事がすべて好きだったし、だから新しい価値をいっぱい持ち込んできた。MBAのプログラムで学んだことを即、試せる場として、自分としても学びをリアルに習得できる機会でもありました。Win-Winだったんですね。だから突っ込んでやった。そこをちゃんと評価してもらえたんだなと、その時初めて実感できたのでしょう。僕が、良い奴なんだけど、マネージメントとしては不器用なB社長からほしかったのは、そういう手放しの「評価」と「感謝」だったのだと思います。

たった5−6人だった会社を、15−6人になるまで「同士」として一緒に盛り立ててきた過程が思い出され、まだまだ発展途中の段階でもあり、この前を見届けていきたい気持ちもいっぱいありました。この会社にいると、日本出張の機会もたくさんあるのも分かっていました。日本ととても近くにいられるのは、ネットがまだ発展しきっていない時代には魅力的でした。

C部長からの催促に応じることができないまま返事を保留していましたが、彼女もすぐにアシスタントとなる人材がほしくて急いでいたので、あんなに動いて頂いて申し訳なくて仕方なかったのですが、結局はお断りすることにしました。

すっかり好意的に進んできたので、C部長は突然の心変わりに驚いていましたが、心情は理解してくれていたかと思います。

それでも最後に、もう一度だけオファーをくださいました。肩書きは変わらないものの、年収はB社長のオファーを上回る額でした。ハワイで、そのポジションで、それだけの給料が保証されたらスゴイことだよなあと思いながらも、それは感情レベルで訴えかけるものではなく、再びお詫びして、B社長の元で働くことに決めたのでした。

ハワイに移住してから3年後に我が身に起こった「学生インターンから副社長への昇格」。そんなことってあるの?って感じの大事件でした。

しかし、結局は、自分の直感は正しくて、そこから2年後にはもうこの人の下では働けないと退社を決意するのですが(苦笑)、今でもあの時の選択は間違いじゃなかったんだろうなと思っています。

あれから17年が過ぎて、ようやく文字に落とすことができました。別により高い肩書きが欲しかったり、高額な給与が欲しくて交渉しまくったわけではなかったのですが、迷いを行動に表したことで、結果的に自分を高く売ることになりました。ほしかった「評価」を形としていただくことができて、その後の自信につながったのは事実で、とても感謝しています。

予算ってないわけ? 会社の給与体系って、それほどまでに流動的なの? ほしい人材になれば、いかようにも自分は高く売れるのか? アメリカって、個人でここまで自由に裁量持って決められるんだ~とか、いろんなことを考えさせられた一件でした。

時折、ロサンゼルスに来る学生インターンには話してきたのですが、公にきちんと書いたのは初めてかもしれませんね。話すと皆がすごくドキドキしてくれて、ワクワクにつながるみたいなんで、思い切って書いてみました。

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