その会議は本当に1時間でなくてはならないか? 常識を疑って「時間を生み出す」創意工夫を

会議室の写真

前職時代、「社長、会議の予定、入れさせていただきました」と言われて、オンラインでスケジュールの予定を見ると、1時間になっている。絶対に、それほどの時間が必要ない会議でも、必ず、1時間になっている。

予定は入れておいてくれないと、他の人が入れてしまう可能性もあるので、時間確保はいいんだけれど、何も1時間、取ることはないよね、と疑問に思うようになりました。

「10分、って予定に入れておいて」と、わがままに言い始めたのが、そもそもの始まりだったかな、と思います。

そして、そうやって見直してみると、無意識に「1時間」と取っている会議の、いかに多いことか。

それは、内部の会議でも、外部との会議でも、お客様がいらしての面会でも、新人の面接でも、なぜか会議は1時間。

いや、これは疑って見る価値あり、として、あれこれ、試行錯誤の改革を始めてしまった次第です。

自分にコントロールがある会議だけ、に限ってですが、それまで当たり前に行われていた1時間単位の会議設定を、「15分単位」あるいは「10分単位」に変えてみたのです。

そうすると、なぜか、ちゃんと予定した時間内に終われてしまうことに気づきました。

今まで、1時間ないとダメ、と勘違いしていただけで、「いったい、そんな長い時間、なにやってたんだっけ?」と思うほど、15分や20分でさっくり終わることができる会議がたくさんあったんですね。

それでも、会議は山程あるので、相変わらず1時間刻みで設定されたものもありました。

すると、会議も、なぜか1時間かかる。不思議と、予定して時間まで、びっしりとかかってしまうものなのだ、ということも学びました。

少し意地悪して、今日は20分しかないからね、と言って始めると、同じ内容が、ちゃんと20分で終わることができる場合も「多い」ということも、体験しました。

不思議です。

つまり、会議とは「終わらせないと終わらないものである」ということが実感できたのです。

逆に言うと、終わろうとすれば、終わる。

そこに「意図」というものが必要だったんです。

そんな実験を何度も積み重ね、ここでもまた、常に常識を疑ってみることの重要性を知りました。

これはたまたま社内会議のことだったのですが、外での会議も、外から依頼されての自社での会議も一緒です。

早く終わったら、そこで切り上げればいいのに、だらだらと、予定していた時間いっぱいまで話してしまったりするのをやめるだけで、時間って、ちゃんと生み出せるんですよね。

もっと大胆に、「その会議って、やらないといけないの?」「メールで情報共有しただけじゃだめなの?」と根底からひっくり返すこともありました。そんなことを繰り返していると、幹部スタッフの中にも、そういう風に、今までのやり方を見直して、質の高い簡易化を図ろうとしてくれる人が増えてきたのは、嬉しかったです。

外の人からの会議要請も、意味がなさそうな時は「断る」ということもしました。メールで資料を送ってください、とか、やんわりと。

あるいは、わざわざ行かないで、スカイプでやれば、互いに大いに時間がセーブできたりもします。

それは、行かねばならないものなのか?

それは、本当に集まらねばならないものなのか?

当たり前を疑うことで、生み出せる時間や価値がある。

そこは、時間感覚が厳しいアメリカ人の働き方に大いに刺激を受けてきました。

だから、時折「自分の仕事の棚卸し」をして、常識で凝り固まっているのを、疑って、疑って、疑って、実験の末に、再構築することって、とても大事です。

忙しい、時間がない、と言う前に、やれることって、まだまだあるよ~と、クライアントさんにもいつもお話しています。

「終わらない~」じゃなくて、「終わらせようとしてない」

「帰れない~」じゃなくて、「帰ろうとしていない」

常に、自分がコントロールできる、と信じること。

それでなくても、やるべきことは次々出てくるんだから、せめてそこに「意志」を込めて、手を変え品を変え、努力してみましょうよ、と。

会うことの重要性、顔を見て、生の声を聞いて、話をすることの重要性も十分にわかった上で、「時と場合を見極めて」の判断である、とご理解ください。

下記は、かつての社長が、こんなこと書いていいのかしらと、ちょっと遠慮しながら昨年、書いてみた同様の記事です(笑)。

ほんっとに、無駄な会議が嫌いだったんですよね。(必要かもしれない会議も、実は嫌いでしたが…)

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フリーになったら、日々の会議がなくなって嬉しい