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死に方は自分で選びたい。カリフォルニア州では「安楽死」が合法化

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大好きなブロガーである「ちきりん」さんが、こういう記事を書かれていました。

終末期医療についての考え方

ちょうど自分もぼんやりと考えていたことでもあり、さらに深く思いを巡らせました。

ネットでは、いろいろ批判もあるようですが、それだけ繊細に語るべきトピックスでもあるのでしょう。

昔は自宅で死ぬことも多かったのに、いまや、ほとんどの人が、「死ぬまで病院で生かされる」という状況の中で、終末期、というのを迎えます。

子どもの頃に、母方の祖父が亡くなった時は、家の布団だったっけな、と思い出します。

でも、今だったらきっと、救急車で病院に運ばれて、最後の瞬間まで、そこで治療を受けることになるのでしょう。よほどアクシデンタルなことでない限り、病院で息を引き取る、というのが、当たり前になっている時代なんですね。

今年は、父が他界したわけですが、彼は、あらかじめ家族に「延命治療はしないように」と、家族にお達しをしていました。

なので、口からものが食べられなくなって、病院に連れていって、そのまま入院、となったときにも、胃に穴を開けて栄養を流し込む、という治療(と呼ぶのかな?)をしない選択をし、母か妹が書類にサインをしました。

日本もそういう手続きを踏まないと、訴訟をする社会になったので、いろいろたいへんです。

直近の家族だけではなく、親戚とかが出てくると、とてもややこしいのだ、とちきりんさんも書いています。

命の問題は、それほど重いし、複雑だということなのでしょう。

しかし、胃ろうという名の治療は施さないことが決まっても、点滴はされていました。

たかが200キロカロリーのものらしいのですが、それだけしか身体に入れなくても、もう意識もほとんどなく、口もきかず、何も見ておらず、という状態の身体のままで、父は2週間、生き続けました。

それを、「生きた」と表現するのは、適切なのかどうか。これって、彼が望んでいなかった「延命」に当たるのではないか、点滴さえ止めてしまう方が良いのではないか、とも頭によぎりました。

口も閉じることができず(鼻呼吸ができなくなっているためと、唇に力が入らないため)、呼吸を口でするのですが、肺にもどんどん水がたまって、そのせいで、喉にも痰がからむのです。

それを、声にならない声を出して、無意識下で、若干、不快な様子を訴えたりします。というか、そういう風に、こちらは解釈をします。

そして、看護婦さんが数時間おきにいらしては、歯医者さんの唾液バキュームの大きなもので、吸い取ってくださいます。また、すぐに溜まるんですけどね。

母などは、一生懸命、話しかけたりしていましたが、目は開いているのに、反応はありません。これって、生きてるってことなんだろうか、と素朴な疑問はわいてきます。「心臓が止まるまでの時間が長い」ということが、長生き、ということではないはずだよな、と、つくづく思い知らされた体験でした。

数日すると、病室に入ると、独特の匂いがするようになりました。看護婦さんが身体は拭いてくれているので、汗や脂の匂いではありません。別な、匂いなんですね。

そのことは、検索すると、たくさんの方が書かれていて、ああ、なるほどな、自分の妄想ではなかったのかもな、と後から思いました。

父は、進行したがんがありましたし、わずか2週間で、そのような状態は終わったのですが、これが、もっともっと長く続く方もいらっしゃるようです。

「なかなかお迎えがこないよ」とは、父がよくメールで書いてきた言葉です。

それはまあ、本当に死にたくて言っている言葉ではないわけですが、それにしても、きっと自宅にずっといたとしたら、点滴もできず、痰を吸うこともできず、もっと早く、亡くなってはいたのだろうな、と思います。もちろん、あくまで想像ですが。

延命治療ではないのですが、最低限の治療はされる。それが、実質、「延命」の役割を果たしてしまう。

その時、家族は、「点滴もやめてください」と言えるのか? お医者さんは、それに従えるのか?

病院へ連れて行く選択をした時点で、現在のところ、それはダメっぽい、というようなことを、ちきりんさんも書かれています。

安楽死、とは違いますが、尊厳死、という考えは、もっときちんと定義され、守られてもいいのかな、という気はしています。

特大の胃がんで、喉の骨や肺の水にも転移が見つかっていた父に対して、「がんばって」とは、一度も言えませんでした。

医学の進歩、薬学の進歩、業界の発展は、広い意味で評価されて然るべきとは思いますが、人、それぞれに、こだわりの生き方があるように、その延長としての、死に方へのこだわり、というものを貫く権利があってもいいはず、と、この頃では思うようになりました。

命をまっとうする、ということは、点滴につながれて、口からは入らなくなった栄養分を血管から流し込まれるということとは違うはず、と、素朴に信じています。

このこととは若干、違う話になりますが、自分の最期を思う時、「安楽死」の選択についても、考えざるを得ないようになりました。

それは「自殺」でもあり、他人が助ければ「自殺幇助」という罪を犯させることになり、他人に完全に頼んでしまえば「承諾殺人罪」を犯させることになっていくようです。

生と死の問題は、なかなか簡単にはいきません。

そんな中、カリフォルニアでは、この9月、安楽死を合法とする法案が可決され、10月に知事がサインをして、2016年からの施行が決定されました。

⇒ 「安楽死・尊厳死を合法化する「死ぬ権利」法案、カリフォルニア州で可決」

あくまでも、余命6ヶ月未満の宣告を受けた場合と、限定されていますが、全米では6番目の州であり、宗教倫理の立場から反対する団体がどんどん広がる傾向にあります。これが、世界の流れになっていくのでしょうか。

この法案、「End of Life Option Act」と呼ばれていたのですが、まさに文字通り、「人生の終末における選択権」について考えさせられるものですね。今後の動きや人々の受け止め方や利用の仕方など、見守っていきたいと思います。

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