僕はなぜ書きたいのか? 僕と書くことの関係について考えてみた

Fountain Pen

あなたのパッションは何ですか?とライフコーチのセッションでは必ず話題にするのですが、明確に答えられる人はなかなかいません。皆、毎日を生きることで精一杯で、先のことを考えたり、自分の中に眠る情熱の存在を意識したりする時間や余裕などないのでしょう。

きっとそれは日本の教育や昭和の大人たちが見せてきたライフスタイルのせいでもあるのだと思います。せい、というと、非難しているようですが、そうではなくて、その時代それぞれに、違う価値観や生き方があって当然。昭和の時代は、右肩上がりが当たり前の経済。終身雇用の中で、安心して力を発揮していれば良かった。先のことは会社や社会がちゃんと考えていてくれていた。

でも今はそうじゃないんですよね。だから、自分の頭で考える。自分の心と対話する。自分で決める。自分で創る。そんなことが必要不可欠になったんだと思います。

なぜだか分からないけれど、僕は僕のパッションの源を子供の頃から知っていました。それは書くこと。

小学生の頃って、あんまり誰かの影響とか関係なく、やりたいことに純粋に惹かれ、ひとりの時間を空想の中で過ごし、明日のことを心配する必要もないまま没頭します。

小学生の頃から、僕は大学ノートのようなものを広げては、いつもそこにドラマの原作みたいな小説を書いていました。内容は当時流行りだった青春ドラマの焼き直しみたいなもので、独自性などまったくありません。今で言うライトノベルって感じかな? 

子どもで恋愛体験もないし、興味の範囲が本当に狭かったので、ストーリーを面白く展開することもできずに、いつも途中でやめていました。というよりも、盛り上がるシーンだけを書いているショートショートに近かったかもしれません。

設定を考えて、主人公のキャラクターを決めて、頭の中でイキイキと動かして、それを文字に落とすのが、何よりもワクワクすることだったんですね。地道に積み上げる布石とか、人の心を動かす展開、オチまで突っ込んでいく今期も技術も智慧もなく。いたずら書きとしか言えない程度のものですね。

確かに本は好きだったけれど、でもそれほどの読書家ってわけでもありませんでした。文学作品など、今でも数えるほどしか読んでないかもしれない。だけど、書くことがいつも好きだったのはなぜなんでしょう。

そういう訳がわからずに惹かれてしまうことって、後天的なものではない気がして仕方がないんですね。スピリチュアルな言い方になりますが、「前世」から引き継いできたものとしか思えない。僕の魂は、僕が知り得ないことをちゃんと知っているみたいで、どうしようもなく動かすんですよ、心の奥底から。

わかってるなら早くやればいいのに、50歳過ぎてから「追求してみよう」と思うなんて、あまりにもスロースターターなわけですが、まあアメリカにいると嬉しいのは、年齢なんて誰も気にしないで、いくつからでも新しいことにチャレンジするカルチャーがあること。

「Never too late」

惹かれるままに、導かれるままに、突き進んでみちゃおうと思います。